勝つことばかり知りて、
負くること知らざれば、
害その身に至る。

この言葉は、徳川家康が残した「普段勝負に勝ってばかりの人で、負けた事が無いという人は、必ずいつか身を滅ぼす事になる」という意味の名言である。

三方ケ原の戦い

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camera-icon『味方ヶ原合戦図』 小国政

元亀3年(1572年)12月、徳川領に侵入してきた武田軍は、まるで家康など眼中にないかのごとく、家康の本城である浜松城を悠々と素通りしてゆく。

当時31歳であった家康は、血気にはやり決死の覚悟で討って出る。しかし、天下一の戦上手と謳われる武田信玄に敵するところではなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受け大惨敗を喫し、敗走。

徳川軍の一方的な敗北の中、多くの将兵を失い、家康も討ち死に寸前まで追い詰められる。身代わりに助けられた家康は、最後には僅かな供回りのみで浜松城まで逃げ帰ったと言われる。

これが、徳川家康の生涯最大の負戦「三方ケ原の戦い」である。

顰像(しかみ像)


camera-icon『徳川家康三方ヶ原戦役画像』 徳川美術館所蔵

「しかみ」とは
「しかめっ面をする」という意味である。

三方ケ原の戦いから浜松城に逃げ帰った家康は、全ての城門を開け放ち、城の敷地内で篝火(かがりび。夜間の警護に備えて焚く火)を焚いていわゆる空城計を実行。

そして、帰還直後の惨めな自分の姿を絵師に描かせ、湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んでしまった、とも言われている。

この時に描かれた肖像画が「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(通称・顰像)であり、名古屋の徳川美術館に大切に残されている。

後に家康は、この顰像を「自身の慢心から多くの将兵を失った自らに対する戒め」とし、さらには「軍略の重要性を自らに確認させるため」にも、生涯座右を離さなかったと伝えられている。

空城計とは…
自分の陣地に敵を誘い込むような状態を作ることにより、敵の警戒心を誘う心理戦の戦術の一つである。

悔しかった出来事や惨めな失敗は思い出したくない、と思ってしまうのが人の性(さが)である。滅多に記録になど残さないであろう。

失敗を乗り越えて未来を見据えるべき、ということを頭では解っていたとしても、失敗が大きければ大きいほど、受け入れるのは容易なことではない。

しかし、家康は敢えて惨敗後の苦渋に満ちた惨めな肖像画を残し、生涯大切にし、後世にまで残している。

このことは、家康が大失敗を戒めと捉えるだけに留まらず、失敗に至った自らの行動を冷静になって何度でも見つめ直すことで、自らの失敗の本質を見抜こうとしていた、さらには「失敗の本質を見抜くことの重要性」を後世に伝えようとしていた、と考えることが出来るのではないだろうか。

生涯最大の負戦を経験した自分を描かせた顰像の話は、260年以上続く泰平の世を実現させ、没後には東照大権現として神格化されて信仰の対象にまでなった神君・徳川家康公の非凡さが伝わる逸話である。

余談だが、そんな彼の本陣には、争いのない世界を求めることを意味する「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」を記した旗印が掲げてあった。

そして、戦乱を終息させるべく江戸幕府を開いて天下を統一し、その後260年以上に渡る一定の秩序と平和をもった世をもたらした人物であったことは、現代の日本に生きる私たちも再度認識しておくべきであろう。